Cyber Tera

ガジェット系・ウィルコム系ブロガー

2011年に放映され、多大な反響を呼び早くも2010年代を代表するアニメの一つに数えられるであろう魔法少女まどか☆マギカ(以下まどかマギカ)。2011年〜2012年に放映され好評を博した仮面ライダーフォーゼ(以下フォーゼ)。この二つが広く人気を集めたのは、ティーンエイジャーの感情エネルギーこそ至上の物とする今日のフィクションに多く見られる価値観を用いつつ特定の人間にのみ負担を強いる事で成立する現代社会を描ききった作品であるからだろう。

まどかマギカの世界では、地球人類を上回る高度な文明を持つ知的生命体(キュゥべえの一族)が宇宙の消滅を食い止めるために感情をエネルギーに転換する技術を発明するも、彼らは感情を持ち合わせていなかったため感情を持つ生物を求め地球に到来する。彼らは特に強大な感情を所持する思春期の女性を利用する事により得られたエネルギーを利用し宇宙の崩壊を食い止めている。その結果魔法少女となった人間から魔女が生まれるも、彼らは意に介さない。これだけ多くの人類がいる中で数個個体が消滅したとしても、特段問題ではないと解している

一方フォーゼの世界でも、対立する我望光明の真の目的は12個のホロスコープスイッチを利用してプレゼンターと接触し地球人類を知的生命体としてより高度な存在へと昇華させる事である。ホロスコープスイッチを得るためには彼が開発したゾディアーツスイッチを人間に使わせその人間の特性や感情によってスイッチを進化させる必要がある。そのために作られたのが天の川学園高校であり、自由を重んじる校風というのも思春期の人間の感情を利用するため。ゾディアーツになった人間は死にはしないが、卒業式の回で出てきたカメレオン、アルター、ドラゴンの三名を見る限りゾディアーツ化した生徒にこの先幸せな将来が待っているとは思えない。校長も演技とはいえ生徒の将来を食い物にしていたことを悔やんでいるシーンがある

このように、自らの目標を果たすべく思春期の人間が持つ感情エネルギーを暴走させ怪物にし、その副産物を収集する側と、それを拒絶する側との対立構造というのがこの二者に共通している。しかも、俯瞰的にみれば作中で敵とされている側の方が大義と合理性を持ち合わせている。

しかしそこで大義や合理性のために少々の犠牲はやむを得ないとしてある特定の人間をスケープゴートとして捧げてしまってよいのかと疑問を呈し、それを否定するというのがこの二作の真骨頂であり、現代社会に対する問題提起となった。それが多くの支持を集められたのだ。

この手のフィクションでこういった作風が支持される背景としては、やはり3.11以降の変化というのもあるだろう。これまでにも沖縄の基地問題だったり非正規雇用の増大といった部分で薄々感づいていたところが、一気に露呈した。

経済だったり国防といった大義のために一部の人間をスケープゴートとして捧げる世の中で良いのって。*1

私が言いたいのは残念ながらスケープゴートを止める事は出来ない。だからせめてスケープゴートになっている人達がいることだけは忘れないでほしいし、そういった悲しみを描いたフィクションを通じてもう少し思いやりを持てる世の中になってほしいなということ。

*1:もっとも、まどかマギカではもし美樹さやか魔法少女になっていなければ魔女に操られた志筑仁美はじめ多くの人々と巻き込まれた鹿目まどかが死んでいたため、無責任に否定しているだけという訳でもなく、この事がそういった社会のあり方がもたらす悲しみをより印象づけるものとなっている。原子力発電所の問題でも、放射能の恐怖にさらされる人がいる一方で、電力不足で熱中症になったり医療が滞って亡くなる人だっている